謝罪の準備

約束の日、健也は昼過ぎからキッチンに立っていた。

鍋の中ではビーフシチューが煮えている。春実がクリスマスや記念日によく作ってくれた料理だったが、自分で作ってみると驚くほど手間のかかるものだった。

肉を焼き、野菜を切り、火加減を見て、鍋の様子を確かめる。その合間にテーブルを拭き、サラダを盛り、使った道具を洗う。時間はあっという間に過ぎていった。

「うわ、もう時間か」

夕方、インターホンが鳴ると、健也は慌てて玄関へ向かった。

ドアを開けると、そこには春実が立っていた。エプロン姿の健也を見て、少し驚いた顔をしたあと、すぐに無表情に戻る。

「入って。急に呼んで悪かったな」

「ううん。今日は休みだし大丈夫だよ」

ダイニングに通すと、春実はテーブルの上に目をやり、わずかに視線を止めた。

「ビーフシチュー、作ったの?」

「ああ。うまくできてるかはわからないけど、春実に食べてほしかった」

「そう……」

2人で席につくと、春実がスプーンを取り、ひと口食べる。健也はその反応を待つしかなかった。

「ちゃんとおいしいよ」

その一言に、少しだけ肩の力が抜けた。

だが、今日ここに来てもらった理由は、それで終わりではない。

健也はスプーンを置き、春実をまっすぐ見た。

「今日は、これを食べてもらいたかっただけじゃない。ちゃんと謝りたくて来てもらった。今まで本当にごめん」

春実の反応はない。それでも、健也は続ける。

「最初は、どうして急に離婚なんだって思ってた。心当たりなんてなかったから。でも違った。俺が何も見てなかっただけだった。春実が仕事をしながら家事をしてくれてるの、全部、当たり前みたいに受け取ってた。しかも俺は、感謝するどころか文句まで言ってたよな。自分でも最低だったと思う。本当に悪かった」

深々と頭を下げたあと、しばらく沈黙が落ちた。春実は何も言わず黙っていたが、やがて、静かに口を開く。

「もういいよ。あなたにきちんと不満を伝えずに、受け入れてた私もよくなかった。それに……短い間にここまで生活を立て直して、料理まで作れるようになったのも、立派だと思う」

そこでいったん言葉を切り、春実は健也をまっすぐに見た。

「でも、私の気持ちは変わらない。あなたの誠意は受け取ったけど、もう私は妻に戻るつもりはないの。ごめんね」

「……春実が謝る必要なんてない。俺がもっと早く気づいていたら……」

「そうね。もっと早く向き合ってくれていたら、って思わなかったわけじゃない。でも、もう過ぎたことだから。もういいのよ」

健也はうなずいた。心は痛んだが、不思議と引き止めたい気持ちは湧かなかった。どこかでこうなることを予感していたのかもしれない。

「わかった。今日は来てくれてありがとう」

「こちらこそ招待ありがとう。今度、葉月にも食べさせてあげたら?」

「そうだな」

聞こえるのは、壁掛け時計の針が進む音だけだった。その規則正しい音が、2人の間に漂う静けさを、いっそうくっきりと浮かび上がらせていた。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。