1人暮らしの洗礼

「さすがに着替えるか」

苦いコーヒーを飲み終えて洗面所へ行くと、脱いだシャツや靴下が洗濯かごに入ったままになっていた。

昨日の分も今日の分も、自分でどうにかしなければならない。実家を出てすぐに春実と結婚した健也には、1人暮らしの経験がほとんどなかった。

「これか? いや、違うな。柔軟剤って書いてあるし」

洗濯機の前で棚を見上げると、似たようなボトルがいくつも並んでいた。

「じゃあ、こっちか……」

ラベルを1つずつ読み、ようやく洗剤を見つける。だが適量がどれくらいなのか、見当もつかない。スマホを片手にどうにか洗濯機を回したあとも、気持ちは落ち着かなかった。

「……飯、どうすりゃいいんだよ」

昼が近づいて空腹を覚えたものの、料理などできるわけがない。

冷蔵庫の前をうろうろしたあと、結局、ダイニングテーブルの上にあった食パンをトースターで焼いた。だがバターがない。いや、あるのかもしれないが、見つけられない。マヨネーズを塗って食べたものの、それでは物足りず、冷蔵庫をもう一度開けては閉める。

「はあ……もういい」

食後、昨日の容器と朝のカップを捨てようとして、今度はごみ袋の場所がわからなかった。ようやく見つけても、燃えるごみの日がいつなのか思い出せない。洗濯が終わって干そうとすれば、今度はハンガーの場所がわからない。

「くそ、何なんだよこれ……」

1人分の洗濯と食事を済ませただけで、休日がほとんど消えていた。

春実がいないと、自分は身の回りのことすら満足にできないのか。そう思って顔をしかめながら、健也はベランダに並んだ不格好な洗濯物を見上げ、大きく息を吐いた。

●娘の巣立ちを機に、妻・春実から突然離婚届を渡された健也。心当たりのないまま春実は家を出て行き、残された健也はコーヒーの入れ方も洗濯の仕方もわからず途方に暮れる。1人きりの生活の中で、健也に訪れた変化とは…… 後編【「もっと早く向き合ってくれたら」別れた妻の言葉が突き刺さる…自身の傲慢さに気づいた夫の顛末】にて、詳細をお伝えします。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。