用意周到だった妻の決断
「部屋はもう借りてあるの。単身者用のマンション。必要なものは少しずつ運んでた」
「……は?」
唖然とした。ついさっきまで呑気に旅行のことを考えていた自分が滑稽でならない。
「……本気なのか」
「本気よ」
短い返事のあと、春実は立ち上がった。健也も反射的に腰を浮かせたが、彼女を引き止める言葉は出てこない。謝るにしても、何をどう言えばいいのか、本当にわからなかった。
「じゃあ私、行くね」
玄関のドアが閉まる音が聞こえても、健也はその場に立ち尽くしていた。テレビでは連休の行楽情報が流れ続けていたが、その音はもう耳に入らなかった。
◇
翌朝、目を覚ました健也は、隣のベッドが空なのを見て大きくため息をついた。
どうやら妻が家を出ていったのは夢ではなかったらしい。
昨夜は何をする気にもなれず、フードデリバリーで頼んだ丼物を食べただけで終わった。空いた容器は、そのまま流しに置いてある。
「腹減った……」
健也はパジャマのままキッチンへ向かい、せめてコーヒーでも飲もうと思ったが、豆とフィルターがどこにあるのかわからない。手当たり次第に引き出しを開け、戸棚を探し、ようやく見つけた。
「……こんなとこに入ってたのか」
マグカップを出し、湯を沸かし、どうにか1杯淹れる。それだけでキッチンはこまごまとしたものが散らかり、洗い物も増えていた。
「うっ……ちょっと濃すぎた」
リビングに戻ってスマホを開き、春実に何か贈ったほうがいいのではないかと考える。花か、菓子か、それとも葉月が前に勧めていた化粧品か。こういうときは、何をするのが一番よいのだろう。
