本音の対話とその行方
金曜日の夜、亜樹は仕事帰りに幸平と駅前で待ち合わせた。
言い合いになってから、顔を合わせるのは初めてだった。改札脇に立つ彼の姿を見つけた瞬間、逃げたい気持ちが胸をよぎる。それでも亜樹は足を止めず、まっすぐ歩いた。
「おつかれ」
「おう、おつかれ」
きっと気まずいのだろう、幸平の声も、ややかたかった。
2人は無言のまま歩き、彼の住むマンションに着いた。部屋の空気は冷たく、静まり返っている。亜樹は鞄の持ち手を握り直してから口を開いた。
「この前は、いきなり怒ってごめん」
「……いや、俺も言い方良くなかった。ごめん」
「うん。でも、ちゃんと話せなかったのは私だから……聞いてくれる?」
幸平がうなずくのを確認すると、亜樹は慎重に言葉を選んで語り始めた。
「まず、勘違いしないでほしいんだけど……私、あのクッキーが嫌だったわけじゃないの。高いものが欲しかったわけでもない。ただ、婚約してから初めてのバレンタインとホワイトデーだったし、私の中では今までよりも大事だったの。だから、毎年のバレンタインよりも奮発して、張り切って準備した。幸平のプロポーズがすごくうれしかったから。ちゃんと自分の気持ちを形にしたかったの」
幸平は途中で口を挟まず、黙って聞いていた。
亜樹はさらに続ける。
「だから、幸平のお返しを見て、自分だけが特別に思ってたみたいで寂しかった。コンビニで同じのを見つけたときは、正直頭にきた。でも、引っかかってたのは値段とかじゃなくて、自分との温度差を感じたから」
しばらくして、幸平が低く息を吐いた。
「俺、全然わかってなかったよ。亜樹があのチョコに、そんなに時間もお金も手間もかけてくれてたこと。正直、俺、ホワイトデーって何か菓子を返せばいいくらいにしか思ってなかった」
「うん。知ってる」
「会社帰りにコンビニで買えるし、手軽だし、これでいいかって選んだ。安いし無難だしって。今考えると、あれは完全に手抜きだった」
亜樹は黙って幸平を見た。幸平は視線を落としたまま、さらに言った。
「しかも、ちゃんと亜樹の話も聞かずに心が狭いとかひどいこと言った。本当に悪かった」
「……わかってくれたなら、もういい」
「いや、よくない。ちゃんと埋め合わせしたい」
そこで幸平が少し顔を上げる。
「亜樹の好きなスイーツ、買いに行こう。好きなの、何個でも買うよ」
唐突で不器用な提案に、亜樹は思わず笑った。
「本当に何個でも? 好きなだけ?」
「う、うん……何個でも好きなだけ選んでいいよ……」
「ふふ、冗談だよ。あ、そうだ。私、行ってみたいカフェがあるんだよね」
「カフェ?」
「駅の向こうに新しくできたとこ。そこで好きなだけデザートを頼ませてくれるってのはどう?」
「いいよ。じゃあ、今度そこ行こう」
やがてどちらからともなく立ち上がり、亜樹と幸平は並んで夕食の支度に取り掛かった。包丁がリズムよくまな板を叩く音が、部屋の静けさに心地よく響いていた。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
