レンタル袴をめぐる娘の気持ち
夕食の片づけが一段落すると、冴子は仕事用の鞄からレンタル袴のパンフレットを取り出した。
昼の休憩時間を利用して、近くの呉服店まで取りに行ったものだ。表紙には、「袴一式3万2000円~」と大きく印字されている。しかし、これはフルセットの最低価格であり、着付けとヘアセットは別料金。着物の柄や小物など、自分で好きなものを選ぶのであれば、5万円から7万円が相場だと、店員は言っていた。
「未来」
小冊子を手に声をかけると、未来は顔を上げた。彼女の周りには、たたみかけの洗濯物が散らばっている。
「なに?」
「卒業式のことなんだけど。袴、そろそろ決めないとって思って」
「ああ、そのことね」
未来の視線が、冴子が手に持った案内に向けられる。
「来週なら一緒に見に行けると思うの。仕事、午前だけにしてもらえるか聞いてみるから」
「ありがとう。でも私、袴はいらないよ」
バスタオルをたたみながら、あっさりとそう言った未来に、冴子は思わず聞き返した。
「えっ、いらないってどういうこと?」
「私、スーツで行くつもりだから。ほらこれ、この前ちゃんとクリーニングに出したし」
未来はすっくと立ち上がって、タンスからハンガーを取り出した。
カバーから覗く黒い布地。大学入学時に購入したフォーマルスーツ。就活が始まってからは毎日のように袖を通した1着だった。
「でも……せっかくの卒業式でしょう。それに、女の子でスーツの子なんていないんじゃない?」
「まあ、少ないかもね。でも、ずっと前から決めてたことだから」
あくまでも未来の口調は明るかった。遠慮がちでもなければ、無理に言い聞かせているふうでもない。彼女の中で、もうすでに答えが出ているのだとわかった。
「友達にも、私は袴は着ないって言ってあるし。気にしなくていいかなって」
冴子は冊子に目を落とした。華やかな色の振袖に、刺繍の入った袴。どれも未来に似合うだろう。
「未来、本当にいいの?」
「いいのいいの。1日しか着ない袴に、何万円も使うのもったいないよ」
顔の前でひらひらと手を振って未来は少し笑った。
「その代わり、式が終わったら一緒においしいものでも食べようよ」
「それでいいの?」
「うん。そのほうがいい」
「わかった」
と頷いたと同時に、冴子の胸のつかえがひとつ取れた。
レンタル料を払わなくていい。着付けも、美容院の予約も考えなくていい。
助かった、と思ってしまった自分に気づいた瞬間、冴子は大いに打ちのめされた。
そんな冴子の気持ちを知ってか知らずか、未来はさらに声を弾ませて言った。
「スーツでも写真はちゃんと撮るよ。あとで見せるね」
「……うん。行けなくてごめんね」
「しょうがないよ。お母さん、当日も仕事あるんでしょ。私も式のあとゼミの集まりとかあるし、終わったら連絡するね」
再び未来は立ち上がって、ジャケットをハンガーに掛けた。
「あ、お風呂沸いたみたい。お母さん、入る?」
「未来、先入っておいで」
「じゃあ、お先に」
冴子は膝の上で指を組み、強く握った。未来が浴室に消えたあとも、こたつの上にある袴レンタルの案内から目が離せなかった。
●娘・未来に卒業式用の袴について相談したところ、不要であることを伝えられた冴子。借金返済に追われる日々の中、「助かった」と感じてしまった、そんな自分の心の動きに深く打ちのめされてる冴子だった…… 後編【 「私は、ちゃんと幸せだよ」袴なしの卒業式…借金とともに生きた母に向けて打ち明けた本音】にて、詳細をお伝えします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
