<前編のあらすじ>
事故で夫を亡くしたあさひは、シングルマザーとして息子の拓人を懸命に育てている。そんな拓人も今では小学6年生である。
そんな拓人が入れ込んでいるのが野球である。
ただ、体格が大きいわけでも、取り立てて守備がうまいわけでもない拓斗は、悲しいかな万年ベンチだった。6年生になる今まで公式戦では打席に立てたことはない。下級生も野球のうまい子供たちばかり。おそらく小学生最後の公式試合も打席には、立てないだろう。それでも腐ることなくひたむきに練習する。そんな拓人をあさひは全力で応援していた。
そして初夏、最後の公式戦がやってきた。拓人の所属するチームは順調に勝ち上がり、ついに優勝候補との対決に。3対1と善戦のまま迎えた5回裏、息子のチームメイトたちの思わぬ奮闘ぶりに応援に熱が入るあさひ、だったが……。
突如悪寒に襲われたあさひは、そのまま地面に向かって倒れこんでしまう。
前編:突然倒れこみ…万年ベンチも腐らず頑張る小学6年生球児を支えるシングルマザー 小学生最後の試合で二人を襲う予想外の出来事
絶対ヒット打つんでしょ
守備につこうとグラウンドへ駆け出す仲間を見送っているときだった。フェンスを挟んで背後にある応援席で、母親たちの騒然とした声が上がった。試合中だったけれど、ベンチに残っていたチームメイトも監督も、もちろん拓人も振り返った。
「山田さんが!」
誰かの声に反応して、拓人は自分の母親の姿を探す。地面に倒れ込んでいるあさひが見えて、拓人は目を見開いた。
「母ちゃん⁉」
拓人は叫んだけれど、あさひはぴくりとも反応しないまま、地面に横になっていた。
その後、審判の計らいで、試合は一時中断になった。救急車が到着するのを待っているあいだ、あさひはベンチに横たえられ、首元を氷嚢で冷やしたり、スポーツドリンクを飲んだりしていたけれど、何度もごめんなさいと謝っているあさひの顔色は悪かった。
やがて遠くからサイレンの音が近づいてきた。徐々に大きくなるサイレンの音は拓人の胸の奥をざわつかせた。拓人は荷物をまとめ、グラウンドから出て、あさひのもとへ駆け寄った。
「なんて顔してんの……。ちゃんと集中してなきゃ駄目じゃんか」
あさひは薄く笑った。笑う気力なんてないだろうに、無理に笑おうとしているのがよく分かる、痛い笑顔だった。
「絶対ヒット打つんでしょ。そのために、ずっと準備してきたんでしょ」
「でも、母ちゃん……」
俺はベンチだし――と言いかけて、拓人は言葉を呑みこんだ。それはたぶん言ってはいけないことだった。たとえ試合に出られなくても、チームが勝つためにできることはある。ファウルボールを拾ったり、ピッチャーのキャッチボールの相手をしたり。でもそんなことが倒れた母ちゃんに付き添うことよりも大事だとは思えない。
間もなく救急車が到着する。グラウンドの裏に停まった救急車から救急隊員が下りてくる。担架で運ぼうかという雰囲気だったが、あさひはそれを断ってよろめきながら立ち上がる。
「拓人。帰り支度なんて、母ちゃん許さないよ。あんたがやることはひとつだけ。試合に集中して、きっちり勝ってくること。分かった?」
拓人はうなずくしかなかった。あさひは戸惑っているコーチに「よろしくお願いします」と頭を下げて、救急隊員に支えられながら救急車まで歩いていく。拓人はどうすることもできず、妙に重く感じるエナメルバッグを肩に下げたまま、あさひを乗せて走り出した救急車を見送った。