――昨今、日経平均株価の4万円台乗せやマイナス金利解除、賃上げなど、日本経済に明るい兆しが出てきました。一方、GDPをはじめとするマクロ経済指標は振るわず、2023年には名目GDPでドイツに抜かれ4位に転落。衰退に向かっている前兆もあります。現状をどう捉えればいいのでしょうか。

深刻なのは、日本企業の競争力が失われている点です。スイスの国際経営開発研究所(IMD)が毎年発表している『世界競争力年鑑』(2023年版)によると、日本の競争力の総合順位は、世界64カ国中35位と過去最低です。同ランキングでは、1989年から1992年まで日本は1位でした。その後、首位を明け渡したものの、90年代半ばまでは5位以内をキープしていましたが、それ以降は急降下してしまい、上昇する気配はありません。

                     杉本 和行氏                                            TMI総合法律事務所顧問弁護士 (元財務事務次官・公正取引委員会委員長)

 

――やはり「失われた30年」の影響は大きかったということですね。なぜ、日本の競争力はこれほどまでに落ち込んでしまったのでしょうか。

1990年代に、日本経済は大きな構造変化に直面しました。生産年齢人口がピークアウトしたのが90年半ばで、その後、少子高齢化が急速に進むことになります。また、一人当たりGDPが主要先進国の中でトップになるなど、欧米へのキャッチアップが完全に終了したのも90年頃でした。

一方、韓国や中国などの新興国による急激な追い上げが始まったのも90年頃からです。そうした状況の中、バブルが崩壊し、日本経済は守りの姿勢に入ってしまいました。大宗の企業はバランスシート調整を余儀なくされ、内向きのコストカット志向が強まり、その結果、「低成長」「低物価」「低賃金」という〝三低経済〟に陥ったのです。それ以降は浮上のきっかけがつかめないまま、「失われた30年」に突入しました。

「イノベーションなくして成長なし」という
独禁法の精神が長らく置き去りに

――いくらバブル崩壊の影響もあったとはいえ、国際的に優れた競争力を持っていた日本の転落は、早すぎるような気がします。まるで天国から地獄へという感じなのですが。

たしかにそういう印象はあるでしょう。しかし、バブル崩壊の前から、そうした環境は形成されていたと言えます。1980年代後半から90年代半ばまで、日米半導体協定がありました。国内外の半導体市場を分割して、生産と価格を調整するという協定です。企業間の合意であれば、独占禁止法でいうカルテルにあたりますが、国家間の協定なので、カルテルには該当しません。

しかし、実態は国家間の「カルテル合意」に相当するもので、日本メーカーは大きなあおりを受けました。ただ一方で、それはコンフォータブルな環境でもありました。海外勢との競争に晒されず、マーケットシェアは保障され、生産量もコントロールが可能なので、一定の利益を確保することができたからです。

しかし、そうした〝ぬるま湯〟的状況が、いまの日本の半導体産業の衰退につながったと考えられます。80年代後半から90年代前半まで、日本の半導体産業は世界を席巻し、シェアは5割を超えていました。それが、現在は約10%にまで落ちています。ぬるま湯に浸かっている間に、CPU(中央演算処理装置)等の新しいカテゴリーの製品はアメリカが、DRAM(半導体メモリ)等の既存の製品は、韓国企業や台湾企業が台頭し、日本の半導体産業は著しく後退してしまいました。

――ぬるま湯的な環境は、基本的には「失われた30年」の間も続いていたと考えてよいですか。

半導体産業は象徴的な事例で、バブル崩壊後は、そうした環境が日本経済を覆っていったのだと思います。また、この30年間、超金融緩和の時代が続きました。1995年にコールレートが0.5%に引き下げられて以降、マネーがジャブジャブの状態で、金利のない世界が続きました。リスクテイキングをして、前向きに投資をしようというマインドは、どうしても低下します。

さらに、財政赤字の大きな時代も続き、国内需要を財政赤字が支えるという構図がずっと続いています。財政赤字による需要の下支えは、企業の内向き傾向を高めるものです。既得権を温存し、時代遅れの産業構造を固定化する方向に作用するので、いわゆる〝ゾンビ企業〟の延命につながります。財政赤字による国内需要の追加は、一時的な経済の下支えに過ぎず、長期間続けてしまったことで、経済構造の劣化をもたらす要因にもなりました。

――いったんそうした状況に陥ってしまうと、企業のマインドはなかなか変わらないということですね。日本の競争力の低下もうなずけます。

私が公正取引委員会の委員長に就任したのは2013年3月です。今でも鮮明に覚えているのですが、就任当時は、公正取引委員会の知名度も低く、経済界の方々からは、「過当競争を避けるために仲良くやっていこうとしているのに、公正取引委員会に摘発されるのはたまらない。よく考えてほしい」と言われたのです。いったん守りの姿勢に入ってしまうと、そこから抜け出すのは大変だと思い知らされました。

言わずもがなですが、公正取引委員会のミッションとは、日本企業の競争力を高めるための競争環境を整備することにあり、むしろ経済界の発展を後押しすることです。在任中は、それが私の仕事だと考えていました。

イノベーションなくして、成長なし――これこそが独占禁止法の精神です。イノベーションを促進するためには自由で公正な市場環境を作らなければならず、競争をうながすさまざまな政策の推進が求められているのです。

今こそが日本経済反転のチャンス
供給サイドの企業が牽引役を担うべき

――足元では、ようやく日本経済に明るさが見えてきました。今後、日本企業が活力を取り戻すには何が必要でしょうか。

円高是正などで企業収益が上向き、株価の上昇や賃上げの動きが顕著となってきました。日本経済が反転するチャンスが到来していると思います。企業もリスクテイキングに舵を切りつつあると見ていいと思います。

これからの経済成長の鍵は供給サイドにあります。米アップルの創業者スティーブ・ジョブズの言葉に、「人は形にして見せてもらうまで、何が欲しいのか分からない」というものがあります。これはつまり、日本だけでなく先進国は成熟社会になっていて、基本的な生活に必要なモノやサービスはひと通り揃っているので、そこで需要を喚起するためには、供給サイドが欲しいものを、目に見える「形」にする必要がある、というわけです。これからの経済を牽引するものの本質を突いていると思います。

米アマゾンの創業者ジェフ・ベゾズも「クライアントのニーズがどこにあるかを、絶えずしっかりと考えろ」と、従業員に繰り返し言っていたとされています。スティーブ・ジョブズと、同じことを言っているのでしょう。そこで、供給サイドに求められるのはイノベーションであり、まずは、イノベーションに向けてのリスクテイキング、ということになります。これが成長の鍵でしょう。