「風邪でも引いたのか……?」

「ゴホッ、ゴホッ……」

ジャケットを羽織り家を出ようとした圭介は、急にせき込んでしまった。

「まさか、風邪でも引いたのか……?」

圭介は不安になった。もうじき重要なプレゼンを控えていて、そう簡単には休めない。自分が風邪を引くとチームのみんなにも迷惑がかかってしまう。

圭介は体温をはかってみた。体温計を脇に差し込み、じりじりした思いで待つ。ピッという電子音が聞こえ、体温計を引き抜いてみると、36度7分の平熱だった。

「良かった……、風邪じゃなかった」

季節は初夏を迎え、最近になってエアコンをつけるようになっている。空気が乾燥していたか、エアコンのクリーニング不足でホコリが漂っていたか、おそらくそんな理由で喉が刺激されてせきが出たのだろう。

そう結論づけた圭介は、薬を飲むこともなく、また、マスクもせずに、そのまま家を出たのだった。

「咳するならマスクくらいしろよ!」

タワマンの廊下には高級感のあるカーペットが敷かれている。出社を急ぐ圭介の足音を、柔らかなカーペットがかき消した。

ちょうどエレベーターが上から降りてきたところだった。ドアが開くと、圭介は迷わず乗り込む。1Fのボタンがすでに光っているのを確認した。

「ゴホ、ゴホっ……」

エレベーターに乗り込んで油断したのか、あるいは空気が乾燥していたのか、圭介はまたしてもせき込んでしまう。

と、その瞬間だった。不機嫌そうな声がエレベーター内に響いた。

「おい、せきが出るならマスクくらいしろよ!」

もとからエレベーターに乗っていた男性が圭介をにらんでいた。60歳くらいだろうか、男性は総白髪で、マスクを2重にしてつけている。

「風邪じゃないんですよ」

「すいません。あ、でも、風邪じゃないんですよ」

圭介はあわてて言った。家を出る前に体温をはかっていたので風邪でないことには自信があった。ただ、誤解を解こうして言ったその一言が、白髪の男性の逆鱗に触れてしまった。

「風邪かどうかなんて聞いてないよ。こんなに密な空間なんだから、マスクをするのが当然だろっていってんだよ!」

「はあ?」

高圧的な物言いに、圭介もさすがにムッとしてしまった。マスク着用をマナーと考えるかどうかは人による。少なくとも無関係の他人に怒鳴り散らされるようなことじゃないと思った。

ただ、圭介の態度を生意気に感じたのか、マスクの男性は一層声を荒げた。

「生意気だな、あんた。確か7階から乗ってきたよな。低層階の奴はマスクしないのか?」

最初何を言われたのか、圭介には意味が分からなかった。反論しようと思うまでにもかなり時間がかかってしまった。

その間にエレベーターは1Fに到着し、ドアが開いた。マスクの男性は顔をしかめながらとっとと降りて行ってしまった。

あとには憤懣やる方ない表情の圭介がひとり残された。

「行ってらっしゃいませ」コンシェルジュの挨拶の声だけがロビーに虚しく響いていた。

●高層階の男性はなぜ怒っていたのでしょうか? 後編:【「マスクをしないバイキンマンはタワマンから出ていけ!」33歳タワマン住人の家に貼られた「嫌がらせの貼り紙」の中身】にて詳細をお届けします。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。