娘の記憶と母の想いが交錯

「お母さん」

流し台の前で、湯呑みを洗い始めた美知子に春江は再び声をかけた。

「なあに。お茶、もう一杯淹れようか」

「そうじゃなくて」

春江は大きく息を吸った。

「お父さんと暮らした家だから離れたくないって、さっき言ったよね」

「ええ、言ったわよ」

「……死んだ人のことを悪くは言いたくないけど、守りたい思い出なんてある?」

美知子は手を止めたが、振り返りはしなかった。

「お父さん、夕飯が冷めてただけで、お椀ひっくり返して怒鳴ったことがあったよね。すぐにお母さんが謝って、お味噌汁温め直してた」

「そんな細かいこと、よく覚えてるのね」

「覚えてるよ。私だって怖かったんだから」

春江は雨粒の流れる小窓に視線をやった。

「新聞が見つからないって、座卓を蹴り飛ばしたこともあった。お母さんは悪くないのに、家中探してた」

「昔のことよ」

「昔のことだろうと、なかったことにはならないよ」

洗面器に雫が落ちる音が、またはっきり聞こえた。

「お母さん、全然休む時間なかったよね。パートから帰ってきたらすぐ台所に立って……どれだけ疲れてても、お父さんの夕飯に間に合うようにって動いてた」

「それは……」

「お父さんは当たり前みたいに座ってたよ。お母さんが疲れた顔をしてても、手伝おうともしなかった」

苦い思い出が込み上げて、春江の声が震えた。何よりも母がそれを当然のように受け入れていることがつらい。

「私は悔しかったよ。お母さんを助けられなかった自分にも腹が立った」

美知子は蛇口を止めた。

「私は別に、助けてほしいなんて……」

「嫌なこと思い出させてごめんね。でも、私はもうお母さんに我慢してほしくないの」

「春江……」

「あれを、きれいな思い出にしなくていいんだよ」

春江は祈るような気持ちで母の背中にそう言った。雨音が響く台所で、美知子は湯呑みを持ったまま、じっと立っていた。

●雨漏りする実家に1人で暮らし続ける母・美知子を案じ、春江は老人ホームの見学を勧める。だが母は「亡き夫と暮らした家」を離れたくないと言い張り、春江はつい、長年封じてきた父との記憶に踏み込んでしまう…… 後編【“モラ夫との思い出”に執着した高齢母が、ボロボロの家を捨て「自分だけの幸せ」を掴めた理由】にて、詳細をお伝えします。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。