実家への執着と父の影

美知子から湯呑みを受け取ると、春江の指先にじんわりと熱が移る。居間には雨音が絶えず、天井から落ちる雫が洗面器の水面を揺らしていた。

「そうだ、お茶菓子買ってきたんだった。よかったら食べて」

「まあ、ありがとう」

美知子は春江が差し出した包みを受け取り、迷わず仏壇の前に置いた。拝む背中が以前より小さく見える。

春江は熱い茶を一口飲んでから言った。

「お母さん、ちょっと考えてほしいことがあるの」

美知子は振り向き、何かを察したように眉を下げた。

「また心配ごと?」

「うん。まあ、心配だから言うんだけど」

春江は言葉を選んだ。また母は笑って受け流してしまうかもしれない。

「この家、雨漏りもしてるし、廊下も傷んでるよね。お母さん1人で住むには、危ないと思う」

「危ないって、そんな大げさな」

「大げさじゃないよ。もし夜中に滑ったらどうするの。電気の近くまで濡れたら怖いでしょ」

座椅子に座り直した美知子は、湯呑みに視線を落とし、すぐに小さく首を振った。

「気をつけて暮らしてるから大丈夫よ」

「気をつけるだけじゃ限界があるよ。元気なうちに老人ホームとか、見学だけでもしてみない?」

母を追い出したいわけではない。ただ、雨漏りのする古い家で1人暮らしてほしくなかった。

ところが、美知子の表情はにわかに硬くなった。

「私は行かないわ」

「今すぐ決めなくていいの。見に行くだけでも」

「ここは、お父さんと暮らした家なのよ」

静かだが、はっきりとした声だった。

「長いことあの人と暮らした、春江を育てた家なの。そう簡単に離れられないわ」

洗面器に雫が落ちる。春江は仏壇の写真を見ないようにした。

「でも、お父さんはもういないんだよ」

口にしたあと、しまったと思った。だが、美知子は薄く笑った。

「分かってるわよ。だからこそ、私は最期までここにいたいの」

「私は……お母さんが安心して暮らせる場所を探したい」

「今さら家を離れてどうするの。知らない人ばかりのところで、何をしろっていうのよ」

美知子は立ち上がり、湯呑みを盆にのせた。話は終わりだと言われた気がした。

春江は母の背中にかける言葉をすぐには見つけられなかった。

水音と湿気が、古い居間を満たしている。そこかしこに父の影が潜んでいる気がして、もどかしさが春江の胸の内で膨らんでいった。