<前編のあらすじ>

中堅産業機器メーカーで部長補佐として働く拓郎は、仕事一筋で生きてきた。妻の明子とは会話のない冷めた夫婦生活を送っていたが、それが普通だと思っていた。

ある日、離婚した友人の徹から「会話がない夫婦は離婚の前兆」と聞かされる。気になった拓郎は、将来の夢として明子に定年後の地方移住を提案するが、明子は初めて拓郎の提案を拒否した。

拓郎が「俺のおかげでここまでやってこれたくせに」と言った瞬間、明子は冷静に離婚を告げた。突然の離婚宣告に拓郎は言葉を失い、何も返すことができなかった。

●前編【「俺のおかげでここまでやってこれたくせに」出世街道を歩む54歳…「地方移住プラン」に妻が返した冷徹な一言とは?

明子から渡された離婚届

明子から離婚を告げられてからもこれまでと同じように2人ともほとんど喋ることはなかったが、沈黙の空気感は明らかに今までと違っていた。

とはいえ、特段離婚についての動きがあるわけでもない。明子もきっと感情的になり、そう口走ってしまったのだろう。拓郎はそう考えて、あるいは考えないようにしていた。

その日は土曜日で仕事はなく家でだらだらと過ごしていた。夕方になりパートを終えた明子が家に帰ってきた。いつもなら黙ってキッチンで晩ご飯の準備をするのだが、この日はキッチンではなく拓郎が横たわっているソファにやってきた。

「ちょっといいかしら?」

拓郎は声をかけられたことを意外に感じながらもテレビに目を向けたまま答える。

「何だ?」

「これにサインをしてくれる?」

そう言って明子が出してきたのは、離婚届だった。

「……今さら何を言ってるんだ。ここまでやってきて離婚なんて……」

「悪いけどこっちは限界よ。あなたとはもう一緒にやってられないわ」

「地方で住むのがそんなに嫌か……⁉」

「それもそうだけど、そうじゃないの。私ね、雑貨のお店を出したいと思ってずっと準備してたの。経営するために簿記とかリテールマーケティングとかの資格を取ったりしてたのよ。そんなのもあなたは知らなかったでしょ?」

聞かれて拓郎は何も答えられなかった。

「今のお店でいろいろと経験させてもらいながら開業資金も貯めてたのよ。もうお金も十分貯まったし、店を始める準備は整ってるの。物件だってもう当たりはつけてある」

「……それで離婚か? お前がちゃんと話してないのが問題じゃないのか? お前が店を出したいとかそういう話をちゃんとしてれば、こんなことにはならなかったんだぞ?」

明子は冷ややかな目線を拓郎に向けた。

「あなたにそんな話はしない。だってあなたはずっと雑貨屋で働いているのを道楽とか趣味とか言って馬鹿にしてたんだから」

「……俺が? そんなことを言ったのか?」

記憶にはなかったので思わず聞き返していた。しかし言っててもおかしくないと思った。心の中で雑貨屋で働いてることを馬鹿にしていたので、何かの拍子にそれが漏れ出たとしても不思議ではなかった。

「私は店をするために頑張って仕事をやっていたの。それなのにあなたは私の頑張りを何ひとつ分かろうともせずに見下してた。そんな人に独立しようなんて言うわけないでしょ。否定されて鼻で笑われて終わりよ」

会話がなくなるのは離婚の前兆というのは正しかったのだと分かった。そして取り返しが付かない状況だということも分かった。

「どこかで離婚しようと思ってたけど早まって良かったわ。それじゃこれにサインをしておいてね」

明子はローテーブルに離婚届を置いて拓郎に背中を向けた。