<前編のあらすじ>
父・茂人を登山事故で亡くして以来、麻友と母・達子は毎年命日の前後に件の山へ登り、手を合わせて帰るのを恒例にしてきた。しかし今年は、達子が捻挫したため同行できず、麻友が1人で山へ向かうことになる。
登山道を歩く麻友は、父との山の思い出を次々と思い出していた。しかし、天候は徐々に悪化。麻友は雨宿りのできる小屋を目指して歩を進める。
その途中、麻友は正規ルート脇にある細い踏み跡を見つける。少しでも早く小屋に着けるかもしれないと考えた麻友は脇道へ。しかし雨で斜面はぬかるみ、足を取られた麻友はそのまま滑落してしまう。
●前編〔【登山の悲劇】娘だけで向かった雨の命日登山…慣れた山で犯してしまった最悪の判断ミス〕
助けを呼べない山中の孤独
何かにバックパックが引っかかった感覚があり、体がようやく止まった。
けれど息が詰まり、しばらく動けなかった。木々の隙間から灰色の空がこちらを覗いている。頬に雨が当たり、泥の匂いが鼻を突く。麻友は震える腕で体を起こそうとした。その瞬間、右足首に鋭い痛みが走る。
「っ、痛……」
思わず歯を食いしばった。
立とうとしたが、足に力を入れた途端、痛みが膝まで突き上げてくる。無理だと分かるまでに、何度か同じことを繰り返した。周囲を見回しても、登山道らしきものは見えない。人の声も足音もなく、聞こえるのは、葉を叩く雨粒の音と、自分の荒い息だけだった。
「大丈夫、落ち着いて……連絡しなきゃ」
麻友はバックパックを引き寄せ、スマホを取り出した。画面に落ちた水滴を濡れた袖で拭い、電話をかけようとして、充電がほとんど残っていないことに気づいた。普段携帯しているモバイルバッテリーも、通勤鞄の中に入れたままだ。
「どうしようどうしよう」
表示されているアンテナマークは1本。麻友は慌てて通話画面を開こうとしたが、指が震えてうまくキーパッドを押せない。
「お願い、切れないで」
言い終わる前に、画面は暗くなった。
麻友は何度も電源ボタンを押したが、反応はない。身体が芯から冷えていく。雨で濡れたせいだけではなかった。
そういえば父が事故に遭ったのも、こんな雨の日だった。正規ルートを外れ、戻れなくなったらしいと、あとから聞いた。
「お母さん……」
達子の顔が目に浮かぶ。娘の事故を知らされた彼女が青ざめていくところまで想像してしまい、麻友は唇を噛んだ。山の怖さは知っていたはずなのに、どうして自分は父が亡くなった山で、同じように道を外れてしまったのか。
濡れた斜面に座り込む麻友に、冷たい雨が容赦なく降り注いでいた。
