記憶と違う父の姿

無人の停留所でバスを降りた依子は、重い足取りで坂道を上っていった。相変わらず滝のような雨が降り続いている。角を曲がったところで、依子はぴたりと足を止めた。白く煙る視界の中に現れた実家が、すっかり荒れ果てていたからだ。

外壁はところどころひび割れ、雨どいは傾いている。庭には膝近くまで雑草が伸び、植木鉢が倒れたままになっていた。母がいたころは、季節の花が途切れたことなどなかったのに。

「これはなかなか……」

依子はしばらく門の前に立ち尽くしたあと、玄関の呼び鈴を押した。応答はない。間を開けてもう一度押すと、家の奥で何かが落ちた物音がした。やがて、ゆっくりと足を引きずるような音が近づいてくる。

「誰だ」

扉の隙間から顔を覗かせた父・克之を見て、依子は、一瞬言葉を失った。

記憶の中の父は、いつも厳しく、家にいるだけで周りを畏縮させるような男だった。しかし、今ここにいる父は頬がこけ、目が落ちくぼみ、ひどく痩せ衰えている。依子には、目の前の老人と、かつて家の中で絶対的に振る舞っていた父とを、すぐには重ねられなかった。

「私、依子」

やや片言になりつつそう言うと、父は目をむいた。

「何だ、急に」

「飛行機が欠航になったの。泊まるところもなくて」

「連絡くらいしろ」

克之はそれだけ言って背を向けた。依子は濡れた傘をたたみながら、小さな後ろ姿を見つめた。

歩みも遅く、廊下の壁に手をつきながら進んでいる父。玄関は古新聞や段ボールが重なり、靴を脱ぐ場所さえ狭い。居間の卓上には、郵便物やら薬の袋が散らばり、床にも衣類や雑誌が積まれていた。

「ずいぶん散らかってるのね」

「男1人なんだから、こんなもんだ」

克之は素っ気なく答え、台所へ向かった。

依子も後を追うと、流しには洗っていない食器が残り、調理台の隅には埃の被った調味料の瓶が置かれているのが目に入った。開けた冷蔵庫には同じ総菜がいくつも詰め込まれている。

「これ、いつ買ったの?」

「さあ、覚えてない」

「覚えてないって……」

克之は、棚から湯のみを取ろうと腕を伸ばした。その拍子に袖口がめくれ、赤黒い打ち身と、小さなやけどの跡がのぞいた。

「ちょっと、その腕どうしたの」

依子が近づくと、克之はすぐに袖を下ろした。

「別にたいしたことじゃない」

「やけどしてるじゃない。こっちはぶつけたの?」

「これくらい誰にでもあるだろ」

吐き捨てるように言い、克之は依子に背を向けた。

父がこんな暮らしをしていることを、依子は今日まで何ひとつ知らなかった。長いあいだ父を放っていた事実を、今さら突きつけられたような気がした。