墓前に供えた白い菊が、湿った風に揺れていた。依子は線香の煙を見つめながら、胸の内で母に近況を報告した。夫は還暦を迎えても変わらず元気で、すでに独り立ちした子どもたちも、それぞれの生活を営んでいる。生前は照れくさくて言えなかったことも、ここで手を合わせると素直に思い浮かべられた。

「また来るね、お母さん」

数珠をしまって立ち上がる。1年ぶりの帰郷だが、実家へ寄るつもりはなかった。墓参りを済ませたその足で空港へ向かい、夕方の便で帰る。いつも通り、短い滞在の予定だった。父の顔を見れば、自ずと母の最期を思い出してしまう。わざわざ心を乱す必要はない。

「あら、依子ちゃんじゃない。久しぶりね」

墓地を出ようとしたところで、実家の近くに住んでいる女性に声をかけられた。

「ご無沙汰してます」

「ほんと久しぶりねぇ。お父さんは、お元気?」

依子は返事に詰まった。

父とは何年もまともに話していない。元気かどうかなど、知るはずもなかった。

「ええ、まあ……」

「最近、あまり見かけないけど。前は、朝から散歩に出てたのにねえ」

そう言って心配そうに眉を寄せた女性に、依子が曖昧に笑ってごまかそうとした、そのときだった。

ぽつりと頬に冷たいものが落ちた。見上げると、灰色の空から細い雨が降り始めている。

「あらやだ、降ってきたわ」

帰りの飛行機がまさかの欠航

最寄り駅から在来線を乗り継いで空港に着くころには、さらに雨脚が強くなっていた。窓の向こうで横殴りの雨が滑走路を白く煙らせている。搭乗口へ向かおうとしたところで、アナウンスが天候不良による便の欠航を告げた。

「欠航……?」

スマートフォンで別の便を探したが、振替便にも空きはなかった。続けて空港近くのホテルへ電話をかけたが、運悪くどこも満室だった。

依子はロビーの椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。そのとき、墓地で聞いた言葉がよみがえった。

「お父さんは、お元気?」

知ったことではない。そう思いながらも、腕時計を見る。

実家なら、ここから電車とバスを乗り継いで1時間ほどだ。

しばらく迷った末、依子は重い腰を上げた。空港を出ると、雨はまだ降り続いていた。

実家へ向かうバスの窓に流れる雫を眺めながら、依子は何度も引き返したくなった。あの家で父と2人きり。そう考えるだけで、気が重くなる。それでもバスは、懐かしい町へ向かって進んでいった。