妊娠中の妻との温度差
妊娠9カ月を迎えるころになると、美織は体力的にかなりキツそうだった。大きくなったお腹のせいで寝返りが打てず寝つきが悪いのか、夜中も何度もトイレに起きるようになっていた。裕樹も家にいるときは、できるだけそんな美織のサポートに精を出していた。
食後に2人分の皿を洗った裕樹は、ベランダに出てたばこを吸った。吐き出した煙には、おのずとため息が混ざっている。
子どもが生まれるのは楽しみだ。だが同時に怖くもある。先輩からは「妊娠中より出産後のほうが遥かに大変だぞ」と冗談交じりに脅されていた。自分に親としての務めが果たせるのだろうかという不安は日を追うごとに大きくなっていた。
「……ねえ、ちょっと話があるから中に入って」
いつの間にか、背後の窓ガラスが開いていて、立っていた美織が消臭スプレーを渡してきた。裕樹は最後にひと吸いして携帯灰皿の中にたばこを押し込み、部屋へと戻った。美織は見るからに殺気立っていて、不機嫌さを隠そうともしていなかった。
「どうしたの?」
「……たばこ、もういい加減にやめてくれない?」
「そんなに気になる? 一応、外で吸ってるし、消臭スプレーだってちゃんと毎回……」
「気になる。たばこの臭いがもう本当に無理なの。この子の予定日ももうすぐだし、いつになったらやめるのかなって思ってたけど、そんな素振り全然ないしさ。もしかして、赤ちゃんがいる家でもたばこ吸うつもりじゃないよね?」
美織の語気が強まる。マタニティブルーというやつだろう。最近の美織はちょっとしたことでも、自分が気に入らないとすぐに声を尖らせる。
「まあ、そうなんだけどさ、仕事で疲れてるし、家のことだってやらないといけないし、たばこくらいの息抜きはさせてくれよ」
「私は息抜きなんてできないよ……! 体がずっと重くて夜だって満足に寝られない。それに出産だって初めてでずっと怖いの……!」
「それは分かってるって……」
「分かってるならどうしてたばこをやめてくれないの? たばこが体にどれだけ悪影響かなんて分かってるでしょ? 本当にあなたは子どものことを考えてくれているの? それならたばこなんて真っ先にやめてくれるんじゃないの? あなたがお腹の子をそんなに愛してないんじゃないかって、たばこの臭いを感じるたびに不安になるのよ……!」
美織の強い言葉に裕樹は苛立ちを覚えた。
「俺と美織の子だぞ⁉ 大切に決まってるだろ……! そうじゃなきゃ、下げたくもない頭を下げて仕事なんかしねえよ! 美織こそ、どうしてそんなことも分かってくれないんだよ……⁉」
裕樹は思わず声を荒げ、言い返していた。自分なりに努力も行動もしているつもりだった。ケンカなどしたくはなかった。けれど、自分の努力を真っ向から否定されているようで我慢ならなかった。
「気分悪い。もう寝るから」
そう言ってきびすを返した美織は、リビングを出て行ってしまった。
しばらくして裕樹はまたベランダに出た。苛立ちをなだめるためにたばこを吸おうと思った。けれどたばこに火を付けようとしたところで、美織の言葉が蘇ってきた。
本当にあなたは子どものことを考えてくれているの?
大切に決まっている。けれど自分の言葉に自信が持てなかった。
裕樹はくわえていたたばこを箱にしまい、リビングに戻った。
●妊娠9カ月の妻・美織からたばこをやめてほしいと強く迫られ、激しく衝突してしまった裕樹。だが出産が目前に迫る中、夫婦の冷え切った空気を一変させる出来事が訪れる…… 後編【たばこをやめられない夫が父親になる日…出産と育児で突きつけられた現実の重み】にて、詳細をお伝えします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
