ホワイトデーのお返し

3月の夕方はまだ風が冷たく、駅前を行き交う人たちも足早だった。改札の近くで手を上げた幸平は、亜樹の顔を見るなり、いつもの笑顔を浮かべた。

「遅くなってごめんね。終わり際に厄介な電話取っちゃって。寒かったでしょ?」

「本屋入ってたから大丈夫だよ。そんなに待ってないし」

それから2人は、近くの居酒屋で食事をした。

仕事のトラブル、友人に子どもが生まれたこと、次の休みにどこへ行くか。婚約したからといって、会話の中身まで急に変わるわけではない。その普段どおりの雰囲気が、亜樹には心地よかった。

「あ、そうだ。これ」

店を出て駅へ向かう途中、幸平が思い出したように足を止めた。差し出された小さな紙袋を見た瞬間、亜樹の心がぱっと明るくなる。反射的に笑みがこぼれた。

今日は3月14日。ホワイトデーだ。

「これって……」

「バレンタインのお返し。渡すの忘れるとこだった」

「もう忘れないでよ」

亜樹が「ありがとう」と言って受け取ったのを確認すると、幸平はそれでひとつ用事を済ませたような顔で、また歩き出した。

亜樹は数歩あとをついてから、紙袋を見下ろした。

「ねえ、開けてもいい?」

「いいよ」

駅前の灯りの下で、亜樹は箱を取り出した。淡いブルーの小箱はきれいに包まれていた。ふたを開けると、中には個包装のクッキーが並んでいる。どこか既視感のある、無難で外れのなさそうな品だった。

「これ……クッキー?」

「うん。あ、チョコのほうが良かった?」

もちろん、悪いものではない。普通にもらえば十分うれしいはずだ。けれど、紙袋を受け取ったときにふくらんだ気持ちは、すでにしぼんでしまった。

「ううん、ありがとう」

顔を上げて笑うと、幸平は安心したようにうなずいた。

「よかった。こういうのが一番食べやすいかなと思って」

「うん」

幸平の言い方は軽く、気負いがない。そこに悪気がないことがわかるからこそ、亜樹は何も言えなかった。

「そういえばさ、顔合わせの日、そろそろ決めたほうがいいかも」

「えっ」

「4月入ると俺も忙しくなるし」

「それはそうだけど」

亜樹は箱を紙袋に戻しながら、幸平の横顔を見上げた。ホワイトデーの話題は、もう終わったらしい。

「亜樹のほう、来週末って空いてる?」

「土曜ならたぶん」

「じゃあ、そのへんで1回確認しよ。店とかも」

「うん、わかった」

そのまま駅まで並んで歩き、改札の前で別れた。

「じゃあまた連絡する」

「うん。気をつけて」

「そっちもな」

風が吹くたび、紙袋がふわりと揺れる。中身が入っているとは思えないほど軽くて、亜樹は紙袋の持ち手を握り直した。