素早く朝食のプレートを片付けながら、彩香は黒いランドセルの背中を見送った。
「いってらっしゃい。今日の授業参観、楽しみにしてるからね」
「うん、いってきます」
まだ幼さの残る祐太の声が、玄関の扉に飲み込まれて消えていった。静けさが満ちたキッチンには、水音だけが響く。夫は今週も出張で不在。息子と2人だけの朝は、もう珍しくも何ともない。
祐太は現在、小学5年生。いつの間にか背もぐんと伸びて、だんだん言葉遣いも大人びてきた。最近は、ほとんど手がかからなくなっていて、数年前からフルタイム勤務に戻った彩香としては、ありがたい限りだ。そんな祐太が突然「中学受験がしたい」と言い出したのは、たしか3年生の終わりごろだった。
「お母さん、僕、中学から私立に行きたいんだけど」
彩香は一瞬返す言葉に詰まった。中学受験といえば親が主導して、子どもは半ば連れられるように塾に通う。そんなイメージを抱いていたからだ。まさか子ども側から言われるとは思っていなかった。
「わかった、じゃあ調べてみようか」
そう答えたあと、すでに志望校から通いたい塾まで決まっていると聞いたときには、さらに驚かされた。なんと祐太自身が周りの友人や教師から情報収集をして知ったのだという。
それからというもの、彩香たちの生活は、少しずつ「受験仕様」に変わっていった。本人の希望通り、塾に通うようになり、自宅での勉強時間も増えた。勉強ばかりで息が詰まるのではと心配していたが、祐太があまりに淡々と問題集や塾での宿題をこなすので、こちらも次第に肩の力が抜けていった。
そして去年の春、受験勉強が本格化し、塾の帰りが遅くなったことがきっかけで、スマホを持たせることにした。最初は小学生にスマホなんて、と抵抗があった彩香だが、現実的に考えて連絡手段の確保は必要だった。夫と祐太本人からの説得があったことも大きい。
「あんまり使いすぎないようにね」
「うん、大丈夫。必要なときしか見ないよ」
その言葉通り、祐太は買い与えたスマホを節度を持って使っているようだった。ゲーム三昧で成績が落ちることもなければ、友人とトラブルを起こしたこともない。
彩香は午後の授業参観に向けて、慌ただしく家事を片付け始めた。