夜も更けたころ、一美は書斎の扉をノックした。ゆっくりと扉を開けると、デスクに向かう夫の裕の背中が見える。音楽か、あるいはレコーダーのインタビュー音声でも聞いているのだろう。最近になって一段と白髪の増えた頭には、ヘッドホンがつけられている。
一美は書斎へ入り、裕の右側から温かいお茶の入ったマグカップを置く。一美に気づいた裕はヘッドホンをずらして顔を上げた。
「私、もうそろそろ寝るけど、まだ仕事?」
「ああ、もう少しだけ、きりがいいところまでやって寝るよ」
「そう、あんまり無理しないでよ? 明日も早いんでしょ?」
「明日は朝から打ち合わせが2件、午後はトークイベント出て、そのあと配信番組の収録だから、帰りはけっこう遅くなるよ」
裕はいきいきとした表情で言って、一美の入れたお茶で唇を湿らせる。
「だったら、早く休まないと。もう若くないんだから」
「分かってるよ。だけど俺は生涯現役。だからこうやって動き続けていかないと」
「そうね」
一美はあきれて肩をすくめ、書斎を後にして寝室へ向かった。
夫の裕はもともと中堅の出版社で働くごく普通の会社員だった。忙しさに比べて給料が低かったこと、年を重ね、現場ではなくマネジメントを任せられるようになったこと、その他いろいろなことが重なって、裕は10年ほど前にフリーランスのライター・編集者として独立した。今はもう大学を卒業して働いている息子の達郎も当時はまだ中学生だったから、いくら一美がパートをしていると言っても、思い切った決断だったと思う。
一美としても不安がなかったわけではないが、裕の仕事は順調だったと傍から見ていても思う。
独立直後こそ仕事と収入が激減したものの、出版社にいた頃の裕の仕事ぶりを知る人たちから仕事の依頼がくるようになり、独立した翌々年にはライターとして本を出版することができた。以降はネットテレビの配信番組などに出演する機会も増え、収入はサラリーマン時代の倍以上になった。
何より、サラリーマン時代よりも遥かにいきいきと仕事をしているのがいい。懸命に、そして楽しそうに働いている裕を見ると、子育てを理由に仕事を辞めてしまったことを少しだけ後悔した。
とはいえ、一美には懸念もある。
フリーランスは言わずもがな不安定だ。毎月固定の給料がもらえる会社員と違い、働いた分がそのまま収入になる。それは身体と時間が許す限り青天井で稼げることを意味するが、逆に何らかの理由で働けなくなれば、保障される収入が1円もないということでもある。
おまけに「生涯現役」と口癖のように言っている裕はいっときまで国民年金の保険料を払っていたものの、ここ最近は年金の支払いをやめ、督促状も無視していた。裕にはそうする理由があった。
「どうせ生きてる限り働くし、フリーランスに定年はないからな。年金なんて払うだけ無駄だし、自分たちの老後は、自分で貯蓄して備えたほうがいいだろ」
言い分は分からなくもない。だが、裕も一美も50代になり、大きな病気こそないものの、目が見えにくくなったり、理由もなく膝が痛んだりするようになった。今のところは元気に働けているが、年齢的にいつなにが起きてもおかしくはない。
もちろん貯蓄はあるが、備えをしておかなくていいのだろうかという気持ちが拭えなかった。