資産形成は人生の目的になり得るか?

玉枝がそんな風に思うのは、「60代、70代の人たちの多くは、若い頃に仕事ばかりしているんじゃなくて、もっと好きなことに時間を使っていればよかったということをよく言う。バブル期の証券会社は、それこそ寝る間も惜しんで仕事して、家族サービスも子供の教育も顧みずにひたすら仕事に打ち込むような人ばかりだった。たしかに、それで高い給料はもらえたし、出世すれば退職の頃にはひと財産といえる退職手当があった。お金のことだけいえば、FIREでいうところの経済的な自立はできているのだけど、ほとんどの人が後悔し、人生をやり直したいと言っている。年を取れば、体力が衰えるからお金があったって旅行にもいけない。頻尿になっていつでもトイレを探してしまうようになる人もいる。緑内障で視野が狭くなると景色を楽しむこともできないし、本を読むのさえ苦労するようになるんだ。だから、早期にリタイアするということなのかもしれないけど、資産家の子供ででもないと若いうちにまとまった資金を作るのは難しい。いちかばちかのばくちじゃなくて、一から資産を作っていくには、それなりの時間がかかるからね」という。

昭和を生き抜いた玉枝の言葉は、時に現代の人には厳しくなる。「お金をためたり、運用したりすることは後でもできるけど、その人の人生は一度きり、その人の身体も1つしかなくて時間とともに衰えていくものなんだ。自分の人生としっかり向き合った後ででも資産形成はできるよ。あなたもそうだよ。子育てのために会社を辞めて、それからは今のパート職だけど、あなたの人生は子育てだけのためにあるのじゃないよ。小笠原さんのことに、何かとかかわりを持ってしまうのも、自分自身の人生を本当に生きているという実感がないからなんじゃないの?」と玉枝は、明日香に語り掛けていた。

人生を自分の手に取り戻す

明日香は、「小笠原さんは、これからどうすればいいと思う? お母さんが自分で納得のいく運用商品を探した方がいいというようなことを言ったから、それを実行して頑張っていたんだよ。ちょっとやり過ぎだったとは思うけど」というと、玉枝は、「そうだねぇ」としばし考えた。そして、「うん、ちょっと考えがあるから、彼が退院したら、また会いに行こう」と言った。

その後、玉枝が小笠原に話したのは、「それほど運用業務に全力で取り組めるのなら、資産運用を本業にすることを考えたら」ということだった。玉枝の知り合いに人材コンサルタントの人がいるので紹介するという。「寝食も忘れるほどに没頭できるというのは、この業務に非常に強い関心があるということじゃないかな。欧米の運用会社では、ポートフォリオ・マネージャーやファンド・マネージャーが自らの運用するファンドに投資して大きな資産を作っている事例がたくさんある。資産運用を仕事としてやってみる気はない? 30代半ばの転職には、いろいろと大変なこともあると思うけど、やりたいことと日々の仕事の内容が一致した方が良くはないかな」と問いかけていた。小笠原は、資産運用を仕事にするという発想はなかったので、少し驚いていたが、「真剣に考えてみる」と答えていた。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。