夫のいない暮らしを送る慶子
昼食の食器を洗い終えた慶子は、布巾で手を拭き、居間の時計を見上げた。午後2時を少し回ったところだ。
「あら、もうこんな時間なの」
70代の慶子は夫に先立たれてから、もう何年も1人暮らしを続けている。
子どもたちは遠方でそれぞれ家庭を持ち、年に数回電話で近況を話す程度だった。生活に不自由はないが、1日中誰とも話さない日も珍しくない。夫が生きていたころは、夕食を囲んでたわいのない話をしたものだが、今はテレビを見ながら1人で食事を済ませている。外出するのは食料品の買い出しか、健康維持のために始めた散歩くらいだ。
「お散歩にでも行こうかしらね」
その日も秋の穏やかな日差しの中、いつもの道を歩いていると、茂みの陰から1匹の猫が現れた。茶色と白の毛が混じった小柄な猫で、ずいぶん痩せている。
「あら、猫ちゃん。どうしたの?」
慶子が足を止めると、猫は小さく鳴きながら近寄り、足元に体をすり寄せてきた。
「まあ、人懐っこいのね」
しゃがんで頭をなでると、猫は目を細めた。毛並みは少し汚れており、触れた背中から骨の感触が伝わってくる。何度も鳴く様子を見て、お腹が空いているのだろうと思ったが、散歩の途中なので食べ物は持っていない。
「ごめんね。何もあげられないの」
謝りながらふと、冷蔵庫に昨日茹でた鶏肉が残っていることを思い出した。
「そうだ。ちょっと待っていてね。すぐ戻ってくるから」
慶子はいったん自宅へ戻り、味付けをしていない鶏肉を少量取り出した。小さくほぐして容器に入れ、急いで来た道を引き返す。猫がどこかへ行ってしまっているかもしれないと思ったが、先ほどの場所に着くと、まだ茂みのそばに座っていた。
「ああ、よかった。まだいたのね」
慶子が鶏肉の入った容器を地面に置き、少し離れると、猫は匂いを嗅いでから勢いよく食べ始めた。小さな口を一生懸命動かす姿に、慶子は思わず頬を緩める。食べ終えた猫は、再び慶子の足元へ寄ってきた。
「おいしかった? でも、今日はこれでおしまいよ」
頭をなでると、猫は喉を鳴らした。慶子は名残惜しく思いながらも、空になった容器を持って立ち上がった。だが、慶子は帰宅してからもずっとあの猫のことが気になっていた。
