最近、何かと「ナラティブ(narrative)」という言葉を見聞きすることが多い気がする。「物語」と翻訳されることが多いが、同じく物語を意味する「ストーリー(story)」が筋書きそのものを示すのに対し、ナラティブは物語の背景にある価値観を含意したものを指す。過去を語るのがストーリーであれば、ナラティブは未来を定義するものともいえる。今回は「投資とナラティブ」について考えてみたい。
「少年ジャンプ」作品で考えるナラティブの意味
ナラティブという言葉はつまり、以下のように解釈すればよいだろう。「週刊少年ジャンプ」作品の「ストーリー」は様々だ。当然だが「キン肉マン」と「スラムダンク」ではジャンル、舞台そして世界観も全く異なる(多少、時代が古くて申し訳ない)。ただ、「必ずしも才能に恵まれたとはいえない主人公が努力を重ね、仲間(場合によっては、かつては敵対したことがあるライバルとも)と友情を育み、共通の敵と戦い、勝利を目指す」というのは多くの少年ジャンプ作品に共通する「ナラティブ」だろう。
そのナラティブを端的に表すのが「友情・努力・勝利」というスローガンだ。このような物語が広がることで、「勧善懲悪」や「ヒーローは常に強くあるべき」という単純な話では整理できない日本的な価値観が、世界中の人に共有されることになる。ソフトパワーがこれからの日本にとって重要なのは、他国にはまねできない知的財産(IP)であることだけが理由ではない。それらが生み出すナラティブが、国際関係の構築において非常に大きな役割を果たすためだ。
「SRI」が「ESG」に発展した背景
前置きが長くなってしまったが、投資においても、ナラティブは重要な概念だ。今ではほとんど使われなくなった投資用語に「SRI(社会的責任投資)」がある。環境や社会課題を考慮した場合、不適切な先(武器、酒、たばこ製造など)には投資しない手法のことだ。どちらかと言えば、宗教や倫理観を重視した考えであり、結果を重視する経済合理性の観点では疑問の声も多かった。
そこに「環境や社会を重視することはビジネスの持続可能性につながり、長期的には高い経済的リターンを得られる」というナラティブを付け加えたのが「ESG(環境・社会・ガバナンス)」といえよう。
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投資は未来を展望する行為でもある。例えば、株価は将来の業績に対する期待を反映する。本来、投資において、どんなナラティブを持つかは不可欠な要素であり、SRIが廃れていったのはナラティブが不在だったからではないか。例えば、アクティブファンドのファンドマネジャーは常に自分なりのナラティブを追求していると言える。平たく言えば、市場参加者のナラティブによって形作られるのがマーケットなのだ。
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アクティブファンドは銘柄に公正価値を付ける「価格発見機能」を持つ。アクティブファンドに批判的な人も多いが、アクティブな投資家がいなければ市場は成り立たない。インデックスファンドは「経済が成長すれば市場も大きくなっていくだろう」という単純なナラティブを信じているに過ぎない。
世界的にインデックス運用偏重の流れが起きているが、あまりにインデックスファンドの比率が大きくなれば、アクティブファンドのナラティブがマーケットに反映されなくなる。結果、インデックスファンドが信じるナラティブも実現しなくなるだろう。「自分はインデックスファンドだけで良い」というスタンスをとるのは自由だ。ただ、アクティブ運用によるナラティブの追求こそが、インデックス運用が成立するための必要条件であることは、知っておいてもよいのではないか。
高市首相が発するナラティブ
ナラティブという言葉でいうと、最近、気になる存在が高市早苗首相だ。相反する2つの、非常に強いナラティブを発しているように思えるためだ。『たたき上げの政治家で、初の女性総理としてガラスの天井を破り、国会では官僚の力を借りず自分の言葉できっぱりと答弁する。新しい日本の「強い保守」の象徴である』と捉える人は多い。世論調査の結果などをみるとこちらが多数派と思われる。
一方で、全く異なるナラティブを紡ぐ人もいる。『旧態依然とした保守政党の中でのし上がってきたのは、男性社会の価値観を受け入れ、迎合してきた結果であり、「ワークライフバランスを捨てる」といった発言からは弱者に対する配慮のなさがうかがえる。古い日本の価値基準で政治を推し進めるのではないか』といった具合だ。
どちらが正しいかという話ではない。要は相反する2つのナラティブが非常に強い力を持っているため、それぞれを支持する人の間で真っ当な議論ができず、高市氏に対して是々非々の評価がしづらくなっている点はないだろうか。強いナラティブを発信できるのは政治家としての魅力そのものでもある。一方で、強いナラティブは希望とともに分断も生む。筆者自身は高市氏の政策に期待する面は大きいが、このあたりは少しだけ気になっている。
