真里に伝えられなかった言葉
夜、子どもたちがそれぞれ自室に引き上げたあと、リビングには食器を片づける音だけが残っていた。
悟志はソファに座ったまま、テレビもつけずにキッチンのほうを見ていた。真里はシンクの前に立ち、洗い終えた皿を水切りかごに伏せていく。いつもと変わらないように見えるのに、ここ数日、その背中に声をかけるだけのことが妙に難しかった。
「真里」
呼ぶと、真里の手が一瞬だけ止まった。だが振り向かず、「なに」とだけ返す。冷たい態度にひるみそうになりながら、悟志は立ち上がった。
「この前のことだけど」
真里は蛇口を閉め、ようやくこちらを見た。
「……うん」
「悪かった。いきなり責めるようなこと言って。ろくに話もせずに、カッとなって怒鳴ってしまった」
真里はすぐには何も言わなかった。キッチンの照明が当たって、濡れた指先が光っている。悟志は逃げたくなる気持ちを押さえながら、続きを口にした。
「実を言うと……会社、今かなり厳しいんだ。昇給も賞与もなくなったし、来年もどうなるかわからないって言われた」
真里の表情が、ほんの少し変わる。
「そうだったの。何ですぐに言わなかったの?」
「……言いたくなかった」
「どうして」
「格好悪いだろ。50にもなって、先が見えないとか、給料が増えないとか。お前に言い出しづらかったんだ」
言いながら、自分でも情けない理屈だと思った。
「だからって、ああいう言い方していいわけじゃないよな。通帳を見つけて腹が立ったのは本当だけど……あれは単純に金のことだけじゃなくて、俺自身がいっぱいいっぱいになってたからだ。ごめん」
